❖広福寺の歴史


 当寺の開基、延定坊祐善は能登国柏原(珠洲市)の人。戦禍を避け天正年間に信徒七人と共に海路を越前間瀬浜に上陸。法義弘通に勤める中、道西法師に師事した。道西は宗祖親鸞聖人に帰依し常随給仕していた安達左衛門尉兼道の孫。兼道より伝来の祖師聖人御染筆の阿弥陀如来尊像は、道西老境に至り祐善に授与された。祐善は愈々宿縁を喜び、尊像を恭敬し弥彦の麓を往返し、本願念仏の布教に励む中、この地の同行と共に天正十二年(1584)当寺を建立し、尊像を奉安した。

 昭和十五年に当寺より出火。大火となったが昭和二十八年に間口五間で本堂再建を果たした。平成十一年、草創四百十五年を経て十五世恵信の時、新本堂建立の発議があり門信徒有縁の力が結集され、平成十二年九月三日蒼天清風の下、間口七間の本堂、客殿の落慶法要を円成した。

 当寺は真宗大谷派の末寺であったが、貞享三年(1686)越後信州の多くの寺と共に真宗佛光寺派に転派し、念仏道場の歴史を重ね現在に至る。

 

石川県珠洲市
石川県珠洲市
間瀬海岸
間瀬海岸

❖広福寺について


宗 名 真宗佛光寺派

本 山

渋谷山 佛光寺

所在地

京都府下京区新開町397

宗 祖 親鸞聖人
本 尊 阿弥陀如来
経 典

浄土三部経

 ・仏説無量寿経
 ・仏説観無量寿経
 ・仏説阿弥陀経

❖親鸞聖人のご生涯

 親鸞聖人は承安三年(1173)京都・日野の里で誕生されました。わずか九歳にして青蓮院にて出家得度。比叡山に上り、堂僧として修行をされました。

 

 20年の修行の後、山を下りられた親鸞聖人は、聖徳太子の夢告に従い、京都・吉水の法然上人のもとを訪ねられ、本願念仏の教えに出遇われます。『教行信証』には

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦(1201)、雑行を棄(す)てて本願に帰す。」と書き残されています。

 

 承元元年(1207)朝廷より専修念仏停止の命令を受けた親鸞聖人は、越後国府(新潟県上越市)に流罪に処せられます。親鸞聖人は配流先でも人々に念仏の教えを広めて回り、今でもこの地にはその教えが脈々の受け継がれています。

 

 建暦元年(1211)流罪を赦免された親鸞聖人は、一時京都の地に戻られます。その時に建立した一宇の草庵が現在の佛光寺の草創と伝えられます。草庵を後にした親鸞聖人は、関東の地へ赴き、布教伝道に専念されました。

 

 晩年は京都に戻られ、人々に念仏の教えを説きながら、『教行信証』をはじめ多くの著作を執筆されました。最晩年まで著述に励まれた親鸞聖人ですが、弘長二年(1262)11月28日、90歳にてお浄土に往生されました。

 

 親鸞聖人は愚禿の名のもとに本願念仏の仏道をただ一筋に歩まれました。その歩みは如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今なお、現代に生きる私たちに届いています。

 


❖境内の様子